駅のホームで女性の厳しい声。
内容までは聞き取れない。でも語調は強く非難している様子。
通勤時間帯だし、痴漢か?
そのワリには、まわりに「騒ぎ」がない。
声の元は麻美の右後方にやってきた。
乗車列に並ぶ。
厳しい声の対象物は男性。
やはり、嫌がらせか何かか?
麻美の目線は読みかけの「深夜特急」の
同じ行を何度も行き来してしまう。
「ちょっと、かばん見せてよ」と男性。
「いやよぉ、なんで?入ってないってば」と女性。
「だって俺持ってないんだよ、どうやって改札通ったんだよ」
「はぁ?しらないわよ。なにいってんの?」
「だからぁ、みせてってばぁ」
「ほら、ソレまでなくすつもり?出れなくなるよ?」
「ねぇ、かばんー」
「はぁ?」
麻美のダンボの耳が捕らえた情報を総合すると、
男性はサイフをなくした様子で、そのサイフは女性が持っていると主張。
ソレに対して女性は、かばんの中を見せることなく断固拒否。
手にもっている切符はせめてなくさないよう、
語調は強いが心配を見え隠れさせながらも男性をいなしている。
嫌がらせどころか、痴話げんかか?
電車がホームに入ってきた。
いつもどおりの混雑具合。
下手な場所に立たなければ、まぁ、読書は可能なほどの混雑。
乗り込む。声の元2人も乗り込む。
麻美が一番端の座席の前あたりでつり革をつかむと、
その隣に男性、そしてさらにその隣に女性が立った。
女性は、ほぼドアの前だ。
ふたりとも、麻美と年のころは変わらない。
女性はどこかのOLだろうし、
男性はクールビズ仕様でタイ無しでワイシャツを着ている。
男性のかばんが見当たらないが、気のせいか。
横目で雰囲気だけ見てるから、確かなことはわからない。
車内は冷房が効いて風が循環しているが、
そのとき、ふわっと、きた。
金曜の終電間際の人間のにおい。
酒のにおいだ。
あー、コイツ、酔ってるんだ。
さっきから続いている会話は、
泥酔の彼とマトモな彼女の会話だったのか。
あー、相手が泥酔してちゃ、そりゃ女性の語調も強くなるわ。
面倒だもん。
腕にはまっていたはずの腕時計を落とし、
拾い上げ、それをまたやるのではと心配する彼女。
しばらくすると泥酔彼氏はつり革に両手でつかまり、
ゆれと格闘しながら目を瞑った。
でも格闘はちっとも格闘になってない。
慣性の法則にしたがって、隣の麻美の腕にヤツのひじがぶつかる。
「なんとかオレ、自分を制してます」と態度が豪語している。
なんだよ、うざったいなぁ。
おかげで「深夜特急」への入れ込み具合は、なんとも各駅鈍行的。
「どこでおりるのよ」
「ん、新橋」
その会話が聞こえたときに麻美は降りてしまったから、
その後どうなったかはわからない。
あの泥酔っぷりはどう考えても数時間前、
いや、直前まで飲んでただろう。
それで、あの姿でこの通勤時間帯の電車に乗って
行く先は・・・会社だよな。
世の中平和だ。
まだ木曜だって言うのに。
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