声をかけられた。
「初台の駅は、まっすぐですか?」
声の主は年配の男性。
その質問を発した口からは
決して美しいとは言いがたい歯並びのさまが覗いた。
手には丈夫そうな、でも折り目は乱された小さな紙袋。
谷折りであるはずの紙袋の側面が、山折りになっている。
身なりに無頓着なじーさんがちょっとそこまで行って、
その帰りといったカンジだ。
ヒールを履いている麻美より背が低い。
道を聞いてきたその地点は山手通りの歩道。
道を一本入れば住宅地。
決して「声をかける」のに適した場所でもなければ、
「声をかけられる」ことを想定するような場所でもない。
「京王線の初台の駅は、まっすぐですか?」
「初台、ですか?」
思わず聞き返した。
その地点からの最寄は小田急線代々木八幡駅。
初台の駅なんてその地点から2km弱ある。
行き先がどこかは知らないが、どちらに乗っても新宿には着くのだから
この年配の男性が歩いていくのなら近い駅のほうがいいと思い、
代々木八幡のほうが最寄ですよ、と半ば指をさすように返した。
「東大前から歩いてきたんですけどね、財布をなくしてしまって。
交通費もないものですから。」
山手どおりの騒音をBGMに、そう彼は話した。
「このあたりのかたですか?」
「いやぁ、すみません、着いたらすぐにおくりますから」
「千葉のほうまで帰るので、2000円くらいかな」
老人の言葉の何がきっかけになったのかわからないが、
日が暮れたなか、光を求めて歩道の端により、
何の意識もなく、麻美は財布を取り出した。
千円札が一枚と五千円札が一枚。
さすがに五千円札は渡せず、千円札をわたした。
紙とペンを取り出して返金先の住所を聞こうとする老人に対し、
いや、いいですよ、気をつけて、と、別れを切り出し
そして別れた。
振り返ることなく歩くが、頭の中には「?」が浮かぶ。
なぜ見知らぬ人にお金を渡すようなことをしたのだろう。
なぜ老人は私に声をかけたのだろう。
なぜ初台なのだろう。でも、千葉なのだろう。
怪しむポイントは満載だったのに、
なぜああも自然にサイフに手が伸びたのだろう。
なぜだろう。なぜだろう。
なぜだろうという思いを通り越して
なんだったんだろう、と思う。
老人がたとえ詐欺だったとしても、浮浪者だったとしても
彼の心が痛まなければ、まぁ、いっか。
最後にそう思って片付けることにした。
なんだったんだろう。
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